オラファー・エリアソン展

会期末だったのですごい人の混み方。僕自身、多忙な中、合間を縫って行ったのだけれど、良かった。「Beuty」というシリーズでしょうか、分光するリングに光を当ててゆっくり回転させるインスタレーション、きれい。この展覧会のタイトルは「光の影」なのだけれど、確かに白い光を基準にすると分光して色づいた光は、確かにある種の影なのかも知れない。複数のリングで分けられたその影(光)は、重なることによって更に複雑な色を紡ぎだしていた。実物を見なきゃ絶対にわからないよな、あの美しさ。
あともうひとつ気になったのは、壁が一面、フラットなオレンジの光になっていたインスタレーション、タイトルは忘れた。あれは今回の展覧会のタイトルを一番如実に表していた作品であるといえる。そこでは影の存在が儚いものとしてうつろいでいた。これで気づかされたことは、僕らが見ている世界が常に光を介した世界であって、その同時存在として常に影を見ているということ。影なくしては、あらゆるものは現象としては存在し得ないということ。でもそのインスタレーションでは殆ど部屋が一面の均質な光で覆われていて、その明度の勾配がまったくなかった。(言いすぎかな、殆ど)で、そこにあるべき人の影が薄らいでいて、それは彼らの存在自体が薄らいでいるようでもあった。そんなこんなで思い出すのが村上春樹の「世界の終わり」の僕。その小説の中での影はもちろんメタファーとしてその名がつけられているのだろうけれど、今思い返すとフムフムと思う節もある。もう一度、稿を改めて考えてみよう。