森山邸

実際に見たわけではないけれど、新建築の誌面上でみて、なかなかの衝撃でした。ちなみにウェブサイト上でもいろんな角度からみられます。
http://www.japan-architect.co.jp/japanese/2maga/sk/magazine/sk2006/sk02/w_frame.html
で、何が衝撃だったかというと、建築として成立してしまうところです。いくつかのプロジェクトの内の1つとしてみせられていた時には、そのもののリアリティは到底感じ得ない代物で、形式至上主義の最たるものとしか見えていなかったんですが、実際に空間化されるとその形式の強さとともに、東京の日常の風景に研ぎ澄まされた刃物が刺さっているような。強力な形式がこの風景を歪めているのか、というよりもそれ以上の何かを背負ったような。それでいて、建築から滲み出る生活像が実は僕たちからそんなに遠いところにあるわけではない。
 よくよく考えてみると、1つの生活の単位に対して1つの建物があることは極めて自然なことなのだろう。僕たち、人類が背負っている、というよりもほとんど全ての生物は群れを作って生活していて、その共同体は1つの巣に住まうことはごく自然なこと。当然の如く人類は都市という共同体をつくり、その中にも例えば共同住宅のような共同体を作った。でもそこにある前提は常に互いに何かを共有することであり、西欧の集合住宅は街区の形式の中にロの字型の建物、生活者を統合する中庭という形式に共同性を見いだした。日本だって長屋に付随した路地がコミュニティの場になり、井戸の周りが生活を共有する場になっていたはずである。戸建てに住んでいたのはお金持ちの人たちで、そこには女中が生活したはずである。
 よく言われることだけれど、そういう共同体の幻想(今となっては)は崩壊してしまって、みんなライフスタイルとしては独立した生活を送っている。共有するのはテレビが流す映像だとか、水道局が流す水だとか、関係としては個人対大組織で、個人間でクラスターを作ることはない。インターネットになると個人が発信を出来るっちゃ出来る。このブログやミクシイなどのSNSなどはある種のコミュニティを形成しているかも知れないけれど、生活にダイレクトに結びついたものではなく、互いの距離とかを喪失したスケールのない世界である。秋葉原などもあくまでも「趣都」であって、住まう場所とは言い難い。(反論があるだろうけれど)
 それでも今まで集合住宅が成立していた。というか、成立していたように見えた。何を共有するためにワンルームの部屋が数珠つなぎになっていたのか?もはや一人で暮らすなら1つの一戸建てに住まえばいいのではないか。そんなラディカルな回答を示したのが、この住宅群なのだろう。もはや集合住宅ではなくて、住宅の群れである。
 そこで大切なことは、意外というか当然というべきなのか、あくまでも僕たちの生活の延長上にあるべくしてあった形式だからこそ、この風景に対する身体的な齟齬は生じない。この不快感は僕が作り上げてきた既成概念に対する反動なのだろう。
 だからといって、風呂に入るのに靴を履かなきゃならんのは面倒くさそうだけれど。

さあ、論文も残り僅かです。