森山邸

フィンクというドイツ人のアーティストの展示がなぜだか森山邸であるということで、某友人に誘われて観てきました、話題の森山邸。
なるほど、よくできてる。やはりあのボリュームのスケールと配置が決定的なのだろう。部分の関係はすごくよく練られていて、断片的に面白いところが発見できる。多くの人が心配するであろうプライバシー問題は、建築的には写真で見るほど問題がありそうでもなく、それ以上に森山邸の建っている地域のコミュニティ、いわゆる昔の下町の路地裏の繋がりが強いよう。それに拍車をかける建物の建ち方であることは間違いはないけれど。インテリアはスケール、プロポーションともに十分にコントロールされていて、ちょっと常識的にはあり得ない開口の大きさもインテリアのサイズのとの関係から納得。壁の薄さもあって、外部が非常に近い。
と、これら断片的には本当に素晴らしく、よくできているとは思うのだけれど、僕は決定的な違和感を感じてしまったのも、一方では事実。その後、坂本先生と話したのだが、僕が感じたそれはある種の「無根拠さ」からくるものではないかな、と。部分の関係としては熟考されていてよくできていて、それが「無根拠に」集積されてしまっている感じ。つまり統辞的な水準での根拠が無いと言える。それが僕が最初に書いた、ボリュームのスケールと配置が決定的であることとも重なる。
そういう部分の関係の集積が作る世界というのを、僕は都市であると常々考えていて、複雑系を少しだけ勉強した。そして建築の水準でそれが可能であることを考えていて、森山邸はその一つの極致であるといえる。そんなプロジェクトを現に目の当たりにした今、自身の向かっていた思考と感性のギャップに驚きを隠せない。100%とは言いたくないけれど、僕は間違っていたのか。結局、原理主義的に物事を思考した結果、ある大切なものを無くした状態の世界の貧しさを感じたのか。その大切なものはぼんやりながら輪郭が見えた気がする。

なんだかよく解らない文章になってしまったでしょうか。