外側と内側

昨日の伊東さんの話から。自作についてです。それまで僕はあんまり伊東さんの作品を理解できなかった節があります。メディアテークといい、サーペンタイン、トッズらも。
特にトッズに関しては並木の図像性ばかり気になってしまって、その木のアナロジーに対する意味が見出せませんでした。
で、結局のところ彼の一番の向かう方向は、建築の外側と内側をなくしたい、という至極単純なもので、そうすることによって自由になると感じているようです。メディアテークで言うと、四角いボックスに13本のねじを打ち込んだようなありかたで、表層をなくす方向で考えていたようです。サーペンタインではボックスの表層と構造が一致することで、幾何学の稜線が消えて、そのときに「これだっ!」て感じたそうです。そしてトッズに向かうんですけれど、木のアナロジーというのはそれほど大きな意味を持っていなくて、サーペンタインと同じ流れの中で考えれば、同系列の作品だと考えることができます。僕はトッズがあの敷地に建つ意味というか効果というか、そこに随分と疑問を抱いていて、アミアンのプロジェクトの方が並木の図像性としては充分に効果を発揮しうると考えていましたが、それは全く別の物なんですね。アミアンより、トッズはサーペンタインに似ているといえます。
と以上のことを考えると、伊東さんはやはりモダニズムの文脈の上で建築を考えているなってことがすごくよくわかります。メディアテークのときにはドミノシステムなんてこともいっていたし、外と内という対立的な概念というか、問題設定そのものがモダニズムの持っているジレンマでしょう。日本の少し前の建築なんか見ると外も内もアプリオリに連続していて、その境界なんてなかったのに、でもそれには戻れないって言ってました。結局、モダニズムの文脈を背負って、それを自由にしようとしているんですね。
と、私見も入っていますが、みなさん、意見を。