抽象的な建築、具体的な表現

約8年ぶりに帰国したパリで知り合った仏文学者の友人と食事をする。以前の日記にも出てきた女性です。フランスの友人に日本で会うというのは奇妙なことです。とりわけ彼女は既に外国人状態なので、表参道を案内したんですがその変わり様に相当驚いていました。彼女の記憶は20年以上も前のものみたいで、たけのこ族が竹下通りを闊歩していたよりも前のもの。きっと全く違う風景に見えたんじゃないでしょうか。渋谷で食事をしてその時の会話からちょっとしたことを。
昨日、完成した作品を見せました。携帯電話で写した画像と僕のしゃべりで説明しました。以前の日記にも書いたことですけれど、彼女は僕がつくるもの、あるいは僕がものをつくる時の考え方がモノに対して現実的なものを感じるそうです。それは僕の話し方によるところも大きいでしょうが、出来るだけ具体的にプレゼンするようにしています。即物的にです。そしてその思考がそのまま現れているのか、作るものもある程度、ある意味での具体的なものが出来ていると思います。彼女はその中にも僕のある種の観念的なもの(あるいは哲学的な)も同時に読み取ってくれて、僕としてはそこが非常にありがたい。僕の中でもはっきりしないものが、ぱっと明るく見えてくる。
以上の会話を踏まえて、一方で抽象的の代名詞と言えばセジマさん。確かに彼女のつくる建築はあらゆるものを出来るだけ削ぎ落として、建築をつくっています。その裏にあるディティールなどの努力は計り知れないでしょうね。で、やはり図面の表現とかは抽象的なものというよりも、建築に対してかなり具体的な表現と言えるんですよね。そしてその表現がやはり最もわかり易い。梅林の住宅とかスタッドシアターとかの薄い壁は、スタディ段階の抽象的なものが具体的なものに転換したと思えばなかなか面白い。スタディそのものは抽象的な段階から少しずつ具体的なものに、100分の1の模型から1分の1にしていくように移行していく作業だと思うんですが、それが100分の1のまま1分の1になってしまう。そこに新しいイメージを携えながら。