空白を埋められた。

で、結局購入した車は日産車なんだけれども、近くの代理店は荻窪支店。代理店の隣には以前は広大な敷地に日産の工場があって、それが売却されて一時期、というか長々と空地になっていた。どのような取り決めかはよく分からなかったけれども、その空地は周辺の人に解放されていて、小さな住宅が高密度に並ぶ練馬、杉並に特別なスペースを与えていたように思う。青梅街道から右折して自宅に帰る途中に、その風景は都市の中の特異点として強く僕の心に残っている。それは僕が小学生の低学年くらいまで遊んでいた、当時の大阪の家の近くの公園の風景に似ている。その公園は僕が小学校高学年くらいの時期に、運動公園として整備されて陸上競技場やらゲートボール場やらテニスコートやら。整備された公園では、僕が蝉を捕ろうとして小便をかけられた小さな築山は平にされたし、正月に家族全員で凧上げをした広場も残っていない。日産の工場跡の空地には、そんな失われた場所、僕の記憶を再発見したかのような感慨深いものがあった。築山はなかったけれども、だだっ広い何もない広場があって、そこでいつか誰かと凧を揚げたいと思っていた。まあ、当たり前と言えば当たり前なんだけれども、そんな住宅地としての一等地である青梅街道沿いの広大な土地をずーっと放っておく訳がない。今では、7、8階建てくらいあるかという、RC造のマッシブな羊羹型の集合住宅が並んでしまって、僕の原風景は僕のそばから再び去ってしまった。欧州ではそんなことはないだろう。都市の風景は数百年前から同じようにしてそこに佇んでいるんだろうし、今後も変わらずそこにあり続けるのだろう。決してそれがよいと言いたいわけではない。むしろその逆で、失われるからこそ、そのものの価値はみえてくるのだと思う。別れた恋人を懐かしむように。話の筋がずれてしまったが、都市の中にある用途のない大きな空地。名称を与えて機能を定義は出来ないけれども、なんとなくそこにある空地みたいなものの可能性を最近は考えている。